「遅れてきた春」 0001-0002

 南回りの安旅は長かった。窮屈なエコノミーのせいでこちこちになった腰を伸ばすと、男は足早に地下の鉄道に乗り込んだ。列車が地上に出ると、誰に言うでもなく、男は呟いた。「変わらないな、チューリヒは・・・彼女もそうだといいが・・・」がらがらの座席に腰掛けた男は、おもむろにハードケースの蓋を開けると、大事な荷物の中身を確かめた。美しい五月の優しい光に、たとえようもなくきれいに輝く飴色のアマティがそこにあった。

 「音楽をおやりになるんですか?」 右耳に流暢な日本語がソプラノで飛び込む。過去に向かいかけていた彼の意識は唐突に引き戻された。ほとんど乗客がいないと思い無意識のうちに無防備になっていたことと、話し掛けられたのが生れたくにの言葉であったことと、2つの意味で驚かされて、すぐには返事もできずに相手の顔に視線を向ける。妙な間の空いたことにすこし怪訝な顔をした、うつくしい女性がそこにはいた。