演奏会の感想です。
 
 昭48卒の野村です。演奏会の感想(長文ですみません)  
いやあ、やるもんだなあ!というのが、第一印象。まっこと、スヴェトラーノフ指揮ロシア国立のまったく、“ねじれの位置”にあるような演奏でした。いろいろな意味で、“フルーティー系”というか、“越の寒梅系”というか、さらさらとしたロメジュリでした。ああいう音は、ちょっと、他のオケには真似ができないと思います。私は2回最前列真ん中で聴かせてもらいました。あの冒頭の、たゆたうような、カオス状態の音楽も、そして、待ってましたと、ばかりに始まる、決闘のシーンのバイオリンをはじめとする、弦のバトルもちゃんとしていました。
 ぼくが、最も好ましく思ったのは、弦楽器のトップ奏者たちの、小アンサンブル、チェロのソリ、コントラバスのソリ、そして、金管特にたくさんの奏者によるトロンボーンの重厚さと、最小限の人数のトランペットのアンビバレントな関係、そして、“お金”をとってもたくさん使って調達したであろう大太鼓の口径の大きさ、それを真ん中に配置させたこと、ホルン奏者の突出した技巧、木管トップ奏者の、自分のソロの時間での、スペースの使い方、わりと、時間いっぱい使った演奏+演技・・・・。コンミスはどんな方なのですか?ボーイングがとても力強くて、周囲の奏者がとても弾きやすいと思いました。とても凛々しかった。
 演奏効果の強弱変化が、ほとんどの時間で、薄めなのですが、それでも、プロコフィエフ、そして、もっといえば、シェイクスピアの解釈の1つともとれる演奏にまとまっていたともいえるでしょう。確かに個人的には、1本気な、猪突猛進型の演奏、ガッツに満ちたスヴェトラに代表される・・・のは、ぼくは、好きです。艶歌にも通じる演奏ですね。
 ところが、もしもフランスのオケがやったら、どうなるでしょうか?ブリリアントな華やかさを備えた、シャンパンの泡のような演奏になっていたと思います。一丸になって物事を遂行するというのには、ガッツ型と、同じサーカムスタンスにいて、空気のようなつながりを大事にするとでもいった感じ、これが、曲のまとまりを創っていたと思います
 こう考えてくると、むしろ、星陵フィルが得意とするのは、普通だったら、とてもやらないであろう曲、マーラーとか、ラベルかもしれません。ロメジュリ実現のための、練習台としてなら、ベト1もわかります。これは、自分が弾いてないと非常にわかったのですが、ロメジュリよりもずっと、曲にするのが難しい。なぜかというと、しっかりとした、弦楽器の奏法が、個々人に確率していないと、アンサンブルどころではなく、上っ滑りに陥ってしまう危険性を常にはらんでいる。そして、今回はぼくは、そのように感じてしまいました。ところが、こうした合奏練習をすることで、オケの合奏レベルは高められるのだと思います。それと、非常に在る意味で忘れがちなのが、聴衆の存在。最愛の恋人、親兄弟、知人日比谷関係者・・・、いずれにしても、オケとなんらかのつながりのある人々がほとんど9割を占める。これこそ、とてもいい意味に解釈するならば、ある一定の楽友組織「フィルハーモニー」の原点をみるような思いです。
 つまり、好意的に解釈する耳で温かく、見守りつつ休日の午後を過ごすのに、充実感を得ようとしている。これこそ、これからの社会でのセルフコンシャスに通じる、ある種の理想です。
 クオリティ主義とか、演奏の優劣、うまくいったか失敗したかとかではなくて、それでも、プロコはプロコらしく、自分たちの音としてまさに、聴こえてきました。それが日本人に欠けていた、1つの価値観ガッツでがんばり、頂点をみんなが目指すではない、多様な価値観の創造ということに思いを馳せてしまいました。
 でも、理想ですけれど、もしも「ロメジュリ」を、高校のころ、あのレベルでできたら、もっと、学生生活も、そしてその後の音楽に対する態度も変わっていたでしょうに。
長々勝手を書いてごめんなさい。
野村和寿(昭和48年卒  チェロ/コントラバス)

Date: Wed, 29 Apr 1998 18:39:00 +0900
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