* アルフォンソ10世 * |
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* Alfonso X * |
賢王の名で名高い Alfonso X el Sabio (アルフォンソ10世)は、聖王FernandoIII(フェルナンド3世)の子として、1221年に生まれた。
父は国土回復(レコンキスタ)に目覚ましい功績を上げ、カトリックへの多大な貢献を理由に、その死後、ローマカトリックから聖王(el Santo)の称号を贈られた英雄であり、アルハンブラ宮殿で有名なグラナダを中心とするアンダルシアのみを残して、国土をほぼ回復するという偉業を達成した。その英雄の息子アルフォンソは、父の功に便乗したアフリカ遠征に失敗、あるいはその結果、国内のイスラム教徒の反乱を招くなど、政治・軍事的には恵まれなかった。また、そのような結果に由来する劣等感がもたらしたものなのか、彼の執った中央集権的姿勢は、世論、貴族等の反感を招き、王位継承権のある長男フェルナンドの病死をきっかけに、次男サンチョ王子との決裂を迎えるに至り、骨肉相食む政争の結果、セビリャに追い込まれ、1284年、無念の死を迎えたのであった。 しかし、政治家、君主としてはこのような不運な人生を歩むことになるものの、アルフォンソの文化的業績は広範に渡り、後世に素晴らしい遺産を残すことになった。歴史が彼に、賢王(el Sabio)の名を贈ることになるのも当然と言えよう。聖母マリア頌歌集(Las cantigas de Santa Maria)もそのような遺産のひとつなのである。 彼の主な業績は、歴史編纂者としては、天地創造からモーゼの死までの聖書物語を大まかな内容とした「大歴史」の編纂、そして最も彼が精魂を傾けたのは、悲運の決別を遂げる息子サンチョIV世が、その事業を完成させることになる「大年代記」の編纂である。特にこの「大年代記」は、それまで、ローマによる支配、あるいはゴート族の統治による歴史としか認識されなかったイベリア半島の歴史を、民族の通史として完成させようと言う初めての試みであった。それは取りも直さず、レコンキスタというイスラムからの国土回復運動を通じて醸成されてきた、愛国と統一の気運と表裏一体のものであったのであろう。 そして主要な業績として忘れてならないのは、「七部法典」という重要な法律書の完成である。父フェンルナンド三世は「フェロ・フズゴ」の名で先統治者ゴートの基本法典と、ローマの法律集を俗語に翻訳させたのだが、アルフォンソは、この遺業を受け継ぎ、法規を統一し、民法と刑法からなる法律と道理を、またその恩恵を、臣下・人民に与えようとしたのであった。 その他にも、医学書、薬書、天文学、果てはチェスに至るまで、彼の好奇心は多くの遺産を産み出し、後世に伝えられる事になるのである。 |