「遅れてきた春」 0010
老職人は、仕事の手を休めると、その目つきに相応しくなくぼそっと呟いた。
「アヤズパシャからボスポラスは見えたかい」 「いえ、生憎霧が出ていて」 一瞬時間が硬くなり、ゆっくりほぐれた。 「ん、おまえさんでいいようだな」 僅かに動かした唇だけの職業的な笑顔を返すと、眼鏡をずらし、組み立てかけのバイオリンの底から、紙片を取り出し、男に渡した。 「ここでエージェントに会うといい」 「彼のコードネームは?」 「セネキオ、彼ではなく彼女だ」 「美人?」 「さ、どうかな、わしは知らん」 男はライターを取り出し、紙片に火を付けると、砥石の脇に置かれた水鉢にぽいと投げ入れ、 ドアの向こうの日差しに溶け込んでいった。 |