大震災・マンション脱出記
常田正子

一.脱出

一月十七日午前五時四十六分
 突然起った地震に眼をさます。はげしい揺れの中に天井が落ちて来るように迫って来たので思わず「怖い」と叫んで、ふとんを被った。後で考えると私の身体がベットより飛び上ったのだった。(この時マンションの一階がつぶれたらしい)何分経たかわからない、震えながらふとんの中で考えた.これは縦ゆれだと思い、早く逃げようと、ベットから下りた時、ベットの頭のあたりで何かがかぶさっているのを知る。懐中電燈は、どこかに吹き飛び、おそるおそる暗い中を手さぐりでさわって見る。家具が倒れている。もしも、ベットでなかったら私の頭は直撃を受けて即死だった、と思いゾッとした。外の声が火事だと叫び、一階のガレージから火が出ていると云っている。

 暗い中でパジャマの上にガウンを着用して、部屋を出ようとしたが、ふすまが二枚行く手をふさいで出られない。天井から水が落ちて来ているので動かすことも出来ず、この部星から出られぬままに死ぬかと思うととても悲しかったが、目を閉じて合掌し、しばらくの問、神佛に祈りつづけた。心が落着いたので目を開けると、亡くなった姉のタンスの後に出口を見つけた.必死でタンスを動かして、やっと私の体が通れる程の隙間を作り玄関に通じる廊下に出た。

 玄関のドアは固く柱に喰込んで閉まってている。必死にたたいても開くはずがない。靴を履くために土間に下りる。水道管が破れたのか、ここも天井から滝のように水が落ちて靴の中は水でダブタプだった。つっかけを素足に履き、玄関に掛けてあった姉の半コートを身につけた。急にトイレへ行きたくなって、急いで恐る恐る用をすませる。一階のガレージから出た火は治まらないのか黒い煙が上って来る。とても苦しい。しかし四階の部屋から飛び降りることは出来ない。

 その時ベランダから消防士さんが一人上って来てベランダの戸を開けた。私は必死に「助けて」と叫んだ。その消防士さんは入って釆て玄関のドアを開けようとしたが駄目、ベランダの下に向って「ここに人が居るぞ」と叫び、私に向ってベランダまで出るように云う。

 食堂のテーブルの上に置いてあった物は下の床に落ちていたので、そのテーブルの上を踏んで来るように云われたが、足腰の悪い私はテーブルの上に這い上がるのが精一杯、その様子を見た消防士さんが私の手をつかんで引きづり出した。ベランダに出ると煙で息苦しい。消防士さんが防毒面を頭からかぶせて下さって、やっと息が出来る。その間に私の身体に綱をまきつけてから防毒面を取りはずされる。

そして、ベランダの外側に掴まるように云った。とても恐ろしい。怖がる私を抱えてベランダの柵の外に出された。私は必死に柵に掴まると、足もとにハシゴが立てかけられていた。ハシゴに足をのせた。右足、左足と云われるままに足を下に降ろす。やっと半分降りた時ハシゴは行き止り。境に別のハシゴが掛けられた。「ハシゴを乗換えて下さい。あなたの身体は網で、しっかりしばってあるから大丈夫、怖がらないで」と云われた。左足を思いきりのばして左のハシゴに、そして必死の思いで右足をかけてやっと成功、又一足づつ降りて終に地上に足がついた。

助かったと思うと足がへなへなになった。もう一人の消防士さんに支えられて、先に避難したマンションの人達が集合している喫茶店へ行く。そこは親王館と云う店で、そこの奥さんが私にソックスを履かせて下さり、ブルゾンを身体に掛けて下さった。そのブルゾンは後日行方不明になり心苦しい。メガネも杖も持たずに、入れ歯も忘れて逃げた私は不自由なこと、この上もなし。五階の住人藤野さんと共に荒れた道を岩園小学校の体育館に向かった。

二.避難所

 避難所の体育館へ行く、ホッと一息、そして私の六階建のマンションの一階がつぶれて、一階の人達は全員(六名)生埋めになったことを知る。救出されることを念じながら、いつの間にか体育館は息苦しい程満員になる。室内に入りきらなくて、室外の上りがまちに寝ている人々もいた。私がトイレに行くのもよろよろしながら歩くので、寝ている人が立上り私の手を引いて下さる人があり感謝する。しかし仮設トイレが校庭に出来てから体育館の階段の上り下りが大変。それに足が悪くて、しゃがめない私はトイレで尻もちをつく、一緒に行って下さった女性が通りがかりの男性に救いを求めて助けられた。しかし配給のおにぎりや水について、私は自分で受取りに行かれず親切な人が私の分も貰って来て下さる。気がねをしながら食事をする。悲しくて涙が出た。

 同じ避難所で安達さんと云う御夫妻がとても親切にして下さった。御主人はサロンパスやホカホカカイロなどと湿布くすりを下さり、奥様はパジャマのままでいる私のために半壊の御自宅よりブラウス、カーディガン、ズボンを取出して用意して下さった。しかし、他の人々の中には足腰が悪い私の動作をまどろしく思い、ひどい嫌味を云う人もいた。悲しみを耐えて電話をするために職員室へ行く。電話が通じなくて、又体育館へ戻りかけて石段を上りかけた私は中途で動けなくなった。困り果てている私に学校のボランティアの女性が声をかけて下さった。そして私の手を引いて体育館へ連れて帰って下さった。そのボランティアさんは私に、一階の教室の避難所へ変えて貰うように教頭先生へ頼んで上げますと、云って下さった。私は間もなく少い荷物を持って一階の教室へ連れて行かれた。

 一階の部屋は小さく、ここも多くの人が避難していた。入口を入った所に毛布が敷かれて、横になって身体を休めるように云われたが、いつもの如く自分で起き上れない。やっと人に助けられて起き上った。そして男の人にトイレまで連れて行ってもらった。部屋に戻ると何だか荒れた感じがしていて、男性と女性が大喧嘩をしている。女性が「呼びもしないのに、この小さい部屋に人が入って釆た」と云い、男性は「身体の調子が悪い人だから面倒を見て上げろ」と云う。「私達は人の世話をするために、ここに避難したのではない」と女性の声。その内に何かをぶっつけ合って、その中の一つが私の頭に当った。ヨーグルトの瓶であった。悲し過ぎて涙も出ない。

 このことを知って教頭先生が入って来られた。「ここに居てもつらいでしょう、この近くに聖徳園と云う老人ホームがありますが、そこへ行きませんか?」と云われ、私がお願いしますと云うと数分も経たない内に迎えの車が釆て、私は車椅子に乗せられた。校庭を横切りその車椅子のままで車に乗せられた。

 安達さんに会ってお別れの言葉が云いたいと思った。丁度その時、外出して居られた安達さんの奥さんが帰って来られて、私の姿を見るなり大声で「常田さんどこへ行くの?」と叫びながら車の後を追っかけて来られた。車がスビードを落し、少時間止めて下さったので、私は彼女と握手をして、何も云えず、言葉も出なくて別れました。

   我が名呼ぶ やさしき女性の 面影を  永久に忘れじ 車中にありて

 聖徳園へ、暗い夜道を車は曲り曲り坂道を登る。大きな建物の前で止った。車椅子のままエレベーターに乗せられた。一階で一寸止り、再びエレベーターで二階に上る。茫然自失している私は、いろいろたずねられたが、適格な返事をしたかどうか覚えがない。

 会議室となっている部屋で、ここで寝て下さいとベットを与えられた。寮母さんに連れられて食堂に行く。温いお茶と共にお弁当を頂き涙が出た。地獄より天国へ引上げられた感じ。そしてベットも暖かかった。その夜は久し振りにグッスリ眠った。一月二十日の夜だった。

 翌朝六時が起床時間、地震以来顔も洗っていなかったが、ここも当然水不足。朝食はバンとお茶だけだが、熱いおしぼりタオルが出たので、顔を拭く。やっと生返った心になった。食事の時間に竹下周子夫妻が来た。叔母ちゃんと呼ぶ声に思わず涙ぐむ。ピンク色のビニール袋に冬物の著類と少々の肌着が届けられた。

 ここの生活で気のついた事は、車椅子の人々が多くて話がスムーズに通じない。その中に私と同じマンションの住人がいたので、ここが特別養護老人ホームであることを知った。四、五日して清拭と云う、身体を熱いお湯で拭いて頂く行事があった。それが済んだ時、義妹の須川世史子、甥の純市が見舞に来て下さった。交通の便が悪くて、西宮から歩いて来て、歩いて帰る。しかも大雨の中を来てくれたことがとてもうれしい。

 電話で話をしていたので、竹製のステッキとメガネを貸して下さる。メガネは少々合わないがとても助かった。その後NHKの取材を受け、又読売新聞の取材を受けた。そのことが友人や親類に知られ、私が無事に生きているのを喜んでもらった。
 この聖徳園にいつまでお世話になるのかわからないが、疲れた巽を休めさしてもらい、再び飛び立ちたい、と願った。
 五月六日に芦屋市のケア付仮設住宅に入り、手厚いケアを受け、感謝の気持でいる。


※この手記は、常田さんと近しい被災者の方々が、震災の記憶を残したいとまとめられた文集に、常田さんが寄稿されたものを、ご本人の許可を得て、転載したものです。著作権は常田さんに属しますので、無断転載を禁じます。